午後、電話が鳴りました。
すぐ下の住宅地の懇意にしていたおじいさんの娘さんからでした。
胸騒ぎがしました。
おじいさんは、末期ガンでがんセンターのホスピスに入っていました。
韮山の娘さんが、わざわざうちにいらっしゃる訳は、聞かなくてもわかりましたが、その暗い表情と
『父は、11日に家族に看取られて亡くなりました、、、』
と言う言葉を受け取り、ぐっときました。
『本当にお世話になりました、、、』と、お菓子と、田中山のスイカをいただきました。
おじいさんは、私達がここに家を建てる少し前に引っ越してきました。
一人暮らしでした。
出身は九州で、パン屋さんだったそうです。
戦中戦後は、小麦粉の中に砂や石が混じっていて、酷いもんだった、、、
なんて話してくれました。
苦労して構えたパン屋さん。
火事で全てを失い、静岡県に来たのだそうです。
真面目に工場で働いて、定年後65歳を越えてから、よく釣りに来ていた西伊豆に小さなお家を買ったのです。
奥様を亡くされたのはいつか伺いませんでしたが、会社の健康診断では何も問題ないと診断された直後、ガンと診断され、あっという間に亡くなったのだと、悔しそうに話してくれました。
フットワークが軽く、70歳を越えていたはずですが、下田の葵学園という公開講座の生徒になって勉強するんだと一生懸命通っていたこともありました。
生前私を、『その講師に』と推薦していてくださり、奇しくもこの11月に1日講座を依頼されたところです。
いつも私達の工房の横を通って鮎釣りに行くのが、夏の日課でした。
毎日のように顔を合わせているのに、いつも
『あんた達は働き者だ。
いつも頑張ってる。
そういうところが、俺は好きだ。』
と私達を褒めてくれました。
昔、奥様と一生懸命店を切り盛りしていたご自分の姿を重ねていたのだと思います。
九州男子らしく、まっすぐな人で、かっとしやすいこともありましたが、トラブルがあるたびに、うちへ愚痴や怒りを吐き出しに訪れました。
しかし数年前、脳梗塞で入院してから、本当に丸くなり、口からでる言葉は感謝の言葉ばかりになりました。
奇跡的に何のマヒもなく、益々活発に活動されていました。
去年だったか、満面の笑みでお散歩していたので、尋ねたら、
『免許が取れたんだ!』
と言うのです。
は?車ならいつも乗ってるじゃない?(゜U。)?
『いや、俺の免許は、昔の“軽自動車免許”だったんだ。
この前更新のとき、警察にばれてね。
一旦は返納しようとも思ったけど、ここに住むには車がないといかんだろう?
ちゃんと運転の練習や勉強して、昨日免許センターで一発合格したんだよ!』
80歳を越えてなお、その行動力と根性に感心しました。
警察も、違反だったことを咎めなかったそうです。
あの日の嬉しそうな笑顔が忘れられません。
去年の晩秋、おじいさんの姿を見なくなりました。
組長さんに尋ねたら、ある日突然入院されて、退院後は娘さんの家にいるらしいと知りました。
お年がお年ですから、もう帰ってこないのかもなあと思いました。
そして今年の2月頃、戸口に小さく小さくなったおじいさんが立っていました。
あまりに痩せて小さくなっていたので、お父ちゃんは誰だか気付かなかったほどです。
ガンが4つの箇所にあったのを、手術で全て取り除いてもらった。
と、かすれたる声で教えてくれました。
脳梗塞の時と同じで、
自分は奇跡的に毎回命を救われて、生かされている、、、
本当にありがたい。
と言っていました。
まさか、お腹いっぱいに広がったガンが取りのぞけるなんて信じられなかったけど、おじいさんならあり得るかも、、、と、思ったのでした。
まだまだ戻れないけど、自治会費を、預けていきたい。
と、わざわざ持ってきていました。
春になり、ある日おじいさんの車があるのを見て、急いで訪ねました。
最期まで自由でいたい!と娘さんの家を飛び出して来てしまったそうです。
追いかけてきた娘さんは泣いていました。
ガンを取ったというのは実は嘘で、何もできなかったと教えてくれました。
私も泣きながら、私達ができることなら手助けしますから、、、とお伝えしました。
翌日おじいさんにも、夜中でもいいから、何でも言ってねと言いに行き、娘さんが心配して泣いていたことを話したら、逆におじいさんを泣かしてしまいました。
どちらの想いもわかるので、本当に辛かったです。
そのあとすぐに、またおじいさんはいなくなりました。
初夏に娘さんが訪ねてこられて、おじいさんが間もなくホスピスに入ると知らせてくれました。
初めは嫌がっていたそうてすが、お孫さんがいろいろ説明したら納得したそうです。
それからすぐに逝ったのですね。
私達家族にとても良く接してくださいました。
娘さんにも、私達のことをよく話していたそうです。
自由な人でしたから、病院で亡くなることは本望ではなかったでしょう。
85歳位でしたから、長生きだったと言えますが、もうあの笑顔を見ることはないんだと思うと、とても淋しいです。
不祝儀袋を探し、娘さんの後を追いかけて、ぜひお花を仏前に、、、と、香典をお渡ししてきました。
気付けば、私たちが越してきた時にブイブイ言わせていた地域の重鎮が、みんな小さくなって、運転もままならないほど老いています。
過疎地の悲しい一面です。
この先も、
『初めまして』
よりも、
『さよなら』
ばかりが待っているのが辛いです。